報恩寺の概要
報恩寺の創建について確たる史実は定まっていないが、織田信長が狩野永徳に描かせた「洛中洛外図」には現在の一条高倉付近に当寺の名前が確認できることから室町時代には存在していたとされる。
創建当時は天台宗の寺院だったが、文亀元年(1501)後柏原天皇の勅命を受けた慶譽(けいよ)が再興した際に浄土宗に改宗された
。
天正十三年(1585)に豊臣秀吉の命で現在地へ移転。享保十五年(1730)と天明八年(1788)に度々焼失し、現在の伽藍はそれ以降に再建されたもの。
徳川家光に仕えた福岡藩の藩主 黒田長政が京都滞在時に死去した地としても知られる。
本尊の阿弥陀三尊像は快慶作という説がある他、鎌倉時代の仁王像も安置されている。
報恩寺の見どころ
秀吉と鳴虎
報恩寺は文亀元年の再興に際し後柏原天皇から数々の宝物を賜り、その中の一つに宋または明の時代の中国で描かれた「虎図」がある。
豊臣秀吉は何度か報恩寺を参拝しており、この虎図を気に入って聚楽第へ持ち帰った。ところがその夜に図中の虎が鳴いて眠れなくなりすぐに報恩寺へ返還した、という逸話が残っており「鳴虎図」と呼ばれるようになった。
寺名も「鳴虎報恩寺」と称されることがある。
鳴虎図は12年に1度、寅年の三が日のみ公開される。現在はレプリカが飾られているが、鑑賞は事前の電話予約が必要。→報恩寺の電話番号
またレプリカは特別展などで一般公開される日もある。
撞かずの鐘
報恩寺の境内にある梵鐘は奈良時代の形式を踏襲した平安時代鋳造のものとされる。
西陣が織物の産地として栄えて以降は、朝夕の仕事の交代時間を告げる鐘として撞かれていた。
ある日、とある織屋の子供二人がその日の鐘が何回鳴るかを当てるという争いをしたが、実際には一人がお寺と示し合わせて回数を調整させており、負けたほうの織子は鐘楼で首をつって亡くなってしまった。
これ以降、報恩寺の鐘楼は除夜の鐘以外には決して撞いてはいけない「撞かずの鐘」となったという。
大晦日の除夜の鐘は一般の参拝客でも撞くことが可能(108回で終了)。
報恩寺 写真撮影の注意事項
建物内は撮影不可。
報恩寺の混雑
空いている。
報恩寺の御朱印
300円。平時でも時間があれば授与してもらえる。
報恩寺のアクセス
住所と地図、経路のリンク
- 〒602-0066 京都府京都市上京区小川町寺之内下射場579( →地図でみる)
- →現在地から報恩寺の経路を表示
- →京都駅から報恩寺の経路を表示
電車 バス
- 地下鉄 烏丸線「今出川駅」徒歩12分
- 市バス(系統:9、12、67)「堀川上立売」徒歩2分
- 市バス(系統:9、12、51、59、67、急行101、急行102、急行111、201、203)「堀川今出川」徒歩5分
駐車場
なし。近くにコインパーキングあり。